リユウフオーレル

リユウフオーレル
欧字表記 Ryu Forel
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1959年6月5日
死没 不明(1975年廃用)
ヒンドスタン
フォーレル
母の父 Fairford
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産者 濱田亀蔵
馬主 三好笑子
調教師 橋本正晴京都
競走成績
生涯成績 37戦15勝(うち日本国外1戦0勝)
獲得賞金 3867万6700円
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リユウフオーレル(リュウフォーレル)は日本競走馬種牡馬1963年啓衆社賞年度代表馬

1963年には天皇賞(秋)有馬記念を制した。関西馬としては初めての有馬記念優勝馬。主戦騎手は宮本悳が務めた。

競走馬時代

馬齢は旧表記で統一する。

1963年の日本年度代表馬。天皇賞(秋)有馬記念を含め、重賞7勝。晩成型で、4歳の秋以降は堅実に走り、25戦12勝、2着6回、3着5回。掲示板に乗らなかったのは海外遠征での8着だけで、国内での最悪の着順は大阪杯での5着だった。通算成績は37戦15勝[1]

デビュー前

リュウフォーレルは北海道・浦河の濱田亀蔵によって生産された[2]

母馬のフォーレルはアイルランド産[注釈 1]で、現役時に2勝をあげている[2]。日本へ輸入されるときにハードソース(Hard Sauce)の子を孕んでおり、日本で持込馬としてハードウィンを産んだ[2]。ハードウィンはリュウフォーレルの1歳上の半兄にあたる。また、リュウフォーレルの1歳下の半弟シママサルは四歳特別など6勝をあげることになる。(とはいえ、リュウフォーレルのデビュー時点では、これらの兄弟馬の成績はまだ確定していなかった。)[2]

3歳時(1961年)

3歳時の1961年11月5日厩舎のある京都競馬場の新馬戦でデビューし、逃げてゴール前でアタマ差だけ捕まって2着になった[1]。2戦目の新馬戦(1000メートル)は重馬場になり勝ちあがった[1]

1勝クラス(50万条件)の三歳中距離特別(1600メートル)を1分39秒1で勝ち、阪神3歳ステークスに出走したが、チトセハーバーが勝ち、リュウフォーレルは5着だった[1]

4歳時(1962年)

年が明けて4歳になると、1月3日の4歳戦で2キロ負担重量が軽いマニーボックスに1馬身3/4差で敗れたが、新春カップ(1600メートル)ではヤマニンフレーム、チトセハーバー、マニーボックス、オーステーツなどを相手に2馬身差で勝った[1]

その後は低迷し、オープン戦で2連敗し、皐月賞8着、NHK杯7着で東京優駿(日本ダービー)を迎えた[1]。ダービーでは好スタートからカネツセーキに先頭を譲って2番手に位置し、好位を保ったが、最終的には勝馬フェアーウィンから1秒遅れて8着となった[1]。春シーズンの最後となった毎日杯では3着だった[1]

秋シーズンに入り、これまでの先行戦術をやめ後方待機策をとるようになった[1]。緒戦の平安特別で3着の後、オープン戦(1700メートル)で8戦ぶりに4勝目を挙げると、続く神戸杯(2000メートル)では1番人気に推され、ヒカルポーラらを下して重賞初制覇を遂げた[1]。さらに京都杯(1800メートル)でもコレヒサから3/4馬身差の2着となり、11月末の菊花賞に臨んだ[1]

菊花賞でヒロキミに敗れる

この年の菊花賞は史上最高の23頭の多頭数で行われた。人気を集めたのはダービー2着、前哨戦の京都杯を勝ったコレヒサで、夏の日本短波賞を勝ったスズホープが2番人気だった。3番人気にはセントライト記念2着のアサリュウが支持された。皐月賞馬ヤマノオーは4番人気、ダービー馬フェアーウィンは秋にまだ本調子になく、5番人気どまりだった。前哨戦の神戸杯を勝ったものの、リュウフォーレルは8番人気、神戸杯2着のヒカルポーラは11番人気と低評価だった[1]

レースが始まるとカネツセーキが逃げて、ヒカルポーラやリュウフォーレルは好位につけたが、人気どころはみな後方にいた。カネツセーキは1馬身ほどのリードを保ったまま1周目を終え、2周目に入ったところで後続を離しにかかった。バッキンガムだけがついていったが、3コーナーのあたりでは後続とどんどんと差がひらき、カネツセーキとバッキンガムのリードは10馬身ほどになった。両馬はそのまま4コーナーを回って直線に向くと、バッキンガムが先頭に立った。13番人気のヒロキミが外から追い上げるときに少しよれたせいで、ヒカルポーラは体勢を崩してしまった。ヒカルポーラは立て直して追い込むが、抜けだしたヒロキミを捕まえられず、大外からリュウフォーレルが追い込んでヒカルポーラを半馬身かわし、ヒロキミを追い詰めたがクビ差届かずゴールした。勝ったヒロキミは13番人気、2着リュウフォーレルが8番人気、3着ヒカルポーラが11番人気で、大穴になった。当時はまだ6枠制だったが、ヒロキミのいた5枠はほかの2頭がヒロキミよりも更に人気薄だったため、5枠の枠番単勝馬券が116倍の万馬券になった[1]

この年の暮れに阪神大賞典(2200メートル)に出たが、重馬場になり、4キロ軽く道悪が得意のモトイチに半馬身及ばず2着に敗れた[1]

5歳時(1963年)

5歳に入り、年初のオープン戦、トップハンデを課された日本経済新春杯(2400メートル)を連勝した。春の大阪杯(1800メートル)では60.5キロのトップハンデを背負い、5着に敗れた。これが4歳秋以降の国内戦では生涯で最も低い着順となった。スワンステークス(1800メートル)でも60キロを負担して3着になったあと、春の天皇賞を迎えた[1]

春の天皇賞でコレヒサに敗れる

天皇賞では、関東で4連勝中のコレヒサが本命、中山でダイヤモンドステークスを4馬身差で圧勝してきたヤマノオーが対抗、リュウフォーレルは近走2連敗中だが3番人気に支持された。スワンステークスを逃げ切ったスタートと同時にシモフサホマレが先頭に立ったが、半馬身後ろにコレヒサがぴったりとつけた。リュウフォーレルはその後ろに位置どった。その後ろには目黒記念を勝ったアサリュウがいた。4コーナーをまわって1周目のホームストレッチで、早くも本命のコレヒサが先頭を奪った。シモフサホマレは2番手に位置し、その外にほとんど並んでアサリュウが3番手に上がった。そのままバックストレッチを過ぎ、3コーナー、4コーナーとまわって直線を向いた。コレヒサは逃げ切りを図り、リュウフォーレルは大外から追い込んだが1馬身3/4及ばず、コレヒサが優勝した。しかし、当時の天皇賞には、一度優勝すると天皇賞にはもう出走できないという勝ち抜け制度があり、秋の天皇賞ではコレヒサはもう出場できないので、東京の秋の天皇賞はリュウフォーレルが断然の本命視されるようになった[1]

宝塚記念優勝

天皇賞から1か月後の阪急盃(1800メートル)でリュウフォーレルはトップハンデの62キロを与えられた。次点のミスケイコが7キロ軽い55キロだった。ここでリュウフォーレルは、53キロのゴウカイをつかまえきれず1馬身半差の2着に敗れた[1]

2週後の鳴尾記念(2400メートル)は62キロのトップハンデで、50キロの逃げ馬イーグルにハナ差捉えて重賞3勝目を挙げた[1]

6月末の宝塚記念は創設4年目で、有馬記念を範としてファン投票で出走馬を決める重賞だった。ただし、「春のグランプリレース」という通称が付けられていたとはいえ、まだまだ関西地区で開催される重賞競走の一つという扱いに過ぎず、層が厚い関東所属の有力馬は春の天皇賞が終わるとほとんど帰厩したことから、過去行われた3回の開催については関西所属の有力馬同士のみによる争いという印象が強かった。実際に、コレヒサ、ヤマノオーなど、春の天皇賞に出走した関東馬の中で、宝塚記念に出走した馬は一頭もいなかった。

とはいえ、天皇賞には出走しなかった関東馬エムローンが、当時のリーディングジョッキーでもあった加賀武見を鞍上に据えて出走、1番人気となった。エムローンは昨秋の毎日王冠をレコード勝ちし、天皇賞で3着になった馬だが、この年の始動が遅く5月半ばのアルゼンチンジョッキークラブカップで菊花賞馬ヒロキミを下しての西下だった。当時は関東馬というだけで人気になるほど関東馬の質が圧倒していた時代だった[1]

リュウフォーレルは2番人気での出走だった。レースが始まると、ファン投票3位の4歳牝馬ヒメカップが逃げた[3]。ヒメカップはデビュー以来20戦18勝2着2回のアングロアラブで、このときも9連勝中だった。ゴール前ではエムローンとの激しい競り合いの末、クビ差先着し優勝した[1]

天皇賞制覇

この年の秋初戦は京阪盃で、64キロのトップハンデを背負い、55キロのコウライオーから1馬身差の2着になった。10月の末には中山競馬場へ遠征し、不良馬場で行われたオールカマーで62.5キロのトップハンデで出走した。トップハンデとはいえ関西馬ということで評価は低く7番人気だった。レースでは4歳牝馬のミオソチスが51キロの軽量を活かして勝ち、リュウフォーレルは3着だった[1]

満を持して11月末の天皇賞に出ると、重賞3連勝中のヤマノオー、昨秋の菊花賞馬ヒロキミを抑えて本命に支持された。2番人気は、昨秋菊花賞のあと休養をとり、春シーズンを全休してきたヒカルポーラで、近走はオープンを2連勝していた[1]

レースでは直線でリュウフォーレルが抜けだした所へ後方からヒカルポーラが追い込んで並び、この2頭の競り合いとなった。最後はリュウフォーレルがクビ一つ前に出てゴール、1955年ダイナナホウシユウ以来8年振りに関西馬による秋の天皇賞優勝となった。走破タイムの3分22秒7は春の天皇賞の時より0.1秒早く、当時の東京競馬場芝3200メートルのレコードタイムであった。ヒカルポーラも関西馬だったので、関西馬による1、2着独占となったが、これも8年ぶりのことだった[1]

有馬記念優勝と史上初の年度代表馬同時受賞

リュウフォーレルにとって国内で残す大競走は12月22日の有馬記念だけとなった。この年の有馬記念には、春の天皇賞馬コレヒサの姿がなく、ヒカルポーラも出なかったので、リュウフォーレルは古馬の筆頭だった。ついでヒロキミだが、ヒロキミは昨秋の菊花賞以来、勝ち星がなかった[1]

一方、4歳馬勢は大挙して出走し、全出走馬10頭中6頭が4歳馬だった。中でもメイズイ皐月賞日本ダービーの二冠馬で、有馬記念でも本命に推された。リュウフォーレルは2番人気だった。レースはトウコンとの先行争いを制したメイズイが快調に逃げ、リュウフォーレルは中団あたりを進んでいた。直線に入ってもメイズイの逃げは快調だったが、直線に入ってリュウフォーレルが迫り、中山名物の坂を利して一気にかわし、そのまま1着で優勝した。8回目の開催にして初めての関西馬による有馬記念制覇だった[1]

この年の年度代表馬の選出にあたっては選考が難航を極め、結果はメイズイとの「同時受賞」となった。年度代表馬の同時受賞は1954年の同賞創設以来、この年度のみである。

6歳時(1964年)

天皇賞、有馬記念と当時の国内の二大競走を制したリュウフォーレルだったが、6歳になっても現役を続行することになった[1]

冬を休み、4月に復帰すると2000メートルのオープン戦を2連勝した。しかしここでリュウフォーレルが課された斤量は62キロ、63キロで、もはや日本国内ではこれより軽い斤量で出走できる競走はないことを意味していた[1]

65キロを背負って京都記念(春)を勝ったが、6月の鳴尾記念は67キロで3着、7月の宝塚記念は62キロで3着だった[1]

アメリカ遠征

リュウフォーレルには、アメリカのローレルパーク競馬場から、ワシントンDC国際招待ステークスへの招待が届いた。この競走はアメリカで行われる『世界一の競走馬決定戦』ともいえる競走で、毎年世界各地から強豪馬を招待して11月に行われていた。日本からは天皇賞の優勝馬が招待される例が多かったが、この年はリュウフォーレルが選出された。(招待競走なので、アメリカへの渡航費用はすべてローレル競馬場側が負担する。)

アメリカ遠征を前に9月23日に京都競馬場で行われるオープン競走が壮行レースとなり、63キロを背負って2着に大差をつける圧勝した[1]

しかし現地に入ってからは軽い熱発を発症し、体調自体万全でなかったことも災いして結果は8頭立ての最下位に終わった。勝ったのは通算39勝を果たしたケルソであった。リュウフォーレルはこのレースを最後に競走馬を引退した[1]

通算成績は日本で36戦15勝、アメリカで1戦0勝。収得賞金は38,676,600円。

引退後

競走馬を引退したリュウフォーレルは、1965年(昭和40年)から日本軽種馬協会の種牡馬となった。当初は北海道・胆振地方苫小牧で供用されていたが、後に宮城県鳴子の宮城県支部玉造種付所へ移動になった[2]ヒンドスタンの子としてはシンザンに次ぐ戦績を残した競走馬であり、年度代表馬に選出されたものとしてはアサカオー、天皇賞と有馬記念を制したものとしてはヤマトキヨウダイがいるが、この2つをともに成し遂げたものはシンザンとリュウフォーレルだけである。

産駒は1968年(昭和43年)にデビューし、初年度は5頭が7勝をあげるなど好成績をあげた[2]

しかし、内国産種牡馬冷遇時代であったうえ、授精率が今ひとつだったこともあり失敗に終わり、北海道からアラブ生産が主流の宮城、さらに長野へ移動し、1975年に廃用となって種牡馬を引退した。年度代表馬を受賞したほどの馬であるが、当時は名馬の引退後の処遇についての意識が薄く、その後の行方については明らかになっていない。母の父としては1976年京王杯オータムハンデの勝ち馬ライバフツトを出している。

主な産駒

血統表

リユウフオーレル血統ボワルセル系 / Bayardo5×5*5=9.38%、Chaucer5×5=6.25%) (血統表の出典)

*ヒンドスタン
Hindostan
1946 黒鹿毛
父の父
Bois Roussel
1935
Vatout Prince Chimay
Vasthi
Plucky Liege Spearmint
Concertina
父の母
Sonibai
1939
Solario Gainsborough
Sun Worship
Udaipur Blandford
Uganda

*フォーレル
Forel
1950 鹿毛
Fairford
1934 鹿毛
Fairway Phalaris
Scapa Flow
Pallet Crag Craig an Eran
Palmella
母の母
Maria Zell
1939 栗毛
Beresford Friar Marcus
Bayberry
Eastern Light Allenby
Black Ray F-No.22-d


脚注

[脚注の使い方]

参考文献

  • 『優駿』1970年10月号p22-26「名馬物語リュウフォーレル」
  • 『サラブレッド血統事典』山野浩一・宇佐美恒雄、石崎欣一、二見書房、1989、p736「リュウフォーレル」
  • 『日本の種牡馬録1』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1969、p290-291「リュウフォーレル」

注釈

  1. ^ 資料によってはイギリス産。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『優駿』1970年10月号p22-26「名馬物語リユウフオーレル」
  2. ^ a b c d e f 『日本の種牡馬録1』p290-291
  3. ^ 『優駿』2009年8月号、143頁。 

外部リンク

  • 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ
 
表彰・GI勝ち鞍
啓衆社賞
優駿賞
JRA賞
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
(旧)最優秀5歳以上牡馬
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
最優秀4歳以上牡馬
2000年代
2010年代
2020年代
  • 1 2001年より馬齢表記法が数え年から満年齢に移行
    *2 1954-1971年は「啓衆社賞」、1972-1986年は「優駿賞」として実施
日本の旗 宝塚記念勝ち馬
   

国際競走指定前:
01回(1960年) ホマレーヒロ
02回(1961年) シーザー
03回(1962年) コダマ
04回(1963年) リユウフオーレル
05回(1964年) ヒカルポーラ
06回(1965年) シンザン
07回(1966年) エイトクラウン
08回(1967年) タイヨウ
09回(1968年) ヒカルタカイ
第10回(1969年) ダテホーライ
第11回(1970年) スピードシンボリ
第12回(1971年) メジロムサシ
第13回(1972年) ショウフウミドリ
第14回(1973年) ハマノパレード
第15回(1974年) ハイセイコー
第16回(1975年) ナオキ
第17回(1976年) フジノパーシア
第18回(1977年) トウショウボーイ
第19回(1978年) エリモジョージ
第20回(1979年) サクラショウリ
第21回(1980年) テルテンリュウ
第22回(1981年) カツアール
第23回(1982年) モンテプリンス

第24回(1983年) ハギノカムイオー
第25回(1984年) カツラギエース
第26回(1985年) スズカコバン
第27回(1986年) パーシャンボーイ
第28回(1987年) スズパレード
第29回(1988年) タマモクロス
第30回(1989年) イナリワン
第31回(1990年) オサイチジョージ
第32回(1991年) メジロライアン
第33回(1992年) メジロパーマー
第34回(1993年) メジロマックイーン
第35回(1994年) ビワハヤヒデ
第36回(1995年) ダンツシアトル
第37回(1996年) マヤノトップガン

国際競走指定後:
第38回(1997年) 日本の旗 マーベラスサンデー
第39回(1998年) 日本の旗 サイレンススズカ
第40回(1999年) 日本の旗 グラスワンダー
第41回(2000年) 日本の旗 テイエムオペラオー

国際G1昇格後:
第42回(2001年) 日本の旗 メイショウドトウ
第43回(2002年) 日本の旗 ダンツフレーム

第44回(2003年) 日本の旗 ヒシミラクル
第45回(2004年) 日本の旗 タップダンスシチー
第46回(2005年) 日本の旗 スイープトウショウ
第47回(2006年) 日本の旗 ディープインパクト
第48回(2007年) 日本の旗 アドマイヤムーン
第49回(2008年) 日本の旗 エイシンデピュティ
第50回(2009年) 日本の旗 ドリームジャーニー
第51回(2010年) 日本の旗 ナカヤマフェスタ
第52回(2011年) 日本の旗 アーネストリー
第53回(2012年) 日本の旗 オルフェーヴル
第54回(2013年) 日本の旗 ゴールドシップ
第55回(2014年) 日本の旗 ゴールドシップ
第56回(2015年) 日本の旗 ラブリーデイ
第57回(2016年) 日本の旗 マリアライト
第58回(2017年) 日本の旗 サトノクラウン
第59回(2018年) 日本の旗 ミッキーロケット
第60回(2019年) 日本の旗 リスグラシュー
第61回(2020年) 日本の旗 クロノジェネシス
第62回(2021年) 日本の旗 クロノジェネシス
第63回(2022年) 日本の旗 タイトルホルダー
第64回(2023年) 日本の旗 イクイノックス

   

国際競走指定前:
001回(1937年) ハツピーマイト
003回(1938年) ヒサトモ
005回(1939年) テツモン
007回(1940年) ロツキーモアー
009回(1941年) エステイツ
011回(1942年) ニパトア
013回(1943年) クリヒカリ
016回(1947年) トヨウメ
018回(1948年) カツフジ
020回(1949年) ニユーフオード
022回(1950年) ヤシマドオター
024回(1951年) ハタカゼ
026回(1952年) トラツクオー
028回(1953年) クインナルビー
030回(1954年) オパールオーキツト
032回(1955年) ダイナナホウシユウ
034回(1956年) ミツドフアーム
036回(1957年) ハクチカラ
038回(1958年) セルローズ
040回(1959年) ガーネツト
042回(1960年) オーテモン
044回(1961年) タカマガハラ
046回(1962年) クリヒデ
048回(1963年) リユウフオーレル
050回(1964年) ヤマトキヨウダイ
052回(1965年) シンザン
054回(1966年) コレヒデ
056回(1967年) カブトシロー

058回(1968年) ニットエイト
060回(1969年) メジロタイヨウ
062回(1970年) メジロアサマ
064回(1971年) トウメイ
066回(1972年) ヤマニンウエーブ
068回(1973年) タニノチカラ
070回(1974年) カミノテシオ
072回(1975年) フジノパーシア
074回(1976年) アイフル
076回(1977年) ホクトボーイ
078回(1978年) テンメイ
080回(1979年) スリージャイアンツ
082回(1980年) プリテイキャスト
084回(1981年) ホウヨウボーイ
086回(1982年) メジロティターン
088回(1983年) キョウエイプロミス
090回(1984年) ミスターシービー
092回(1985年) ギャロップダイナ
094回(1986年) サクラユタカオー
096回(1987年) ニッポーテイオー
098回(1988年) タマモクロス
第100回(1989年) スーパークリーク
第102回(1990年) ヤエノムテキ
第104回(1991年) プレクラスニー
第106回(1992年) レッツゴーターキン
第108回(1993年) ヤマニンゼファー
第110回(1994年) ネーハイシーザー
第112回(1995年) サクラチトセオー
第114回(1996年) バブルガムフェロー

第116回(1997年) エアグルーヴ
第118回(1998年) オフサイドトラップ
第120回(1999年) スペシャルウィーク
第122回(2000年) テイエムオペラオー
第124回(2001年) アグネスデジタル
第126回(2002年) シンボリクリスエス
第128回(2003年) シンボリクリスエス
第130回(2004年) ゼンノロブロイ

国際競走指定後:
第132回(2005年) 日本の旗 ヘヴンリーロマンス
第134回(2006年) 日本の旗 ダイワメジャー
第136回(2007年) 日本の旗 メイショウサムソン
第138回(2008年) 日本の旗 ウオッカ
第140回(2009年) 日本の旗 カンパニー
第142回(2010年) 日本の旗 ブエナビスタ
第144回(2011年) 日本の旗 トーセンジョーダン
第146回(2012年) 日本の旗 エイシンフラッシュ
第148回(2013年) 日本の旗 ジャスタウェイ
第150回(2014年) 日本の旗 スピルバーグ
第152回(2015年) 日本の旗 ラブリーデイ
第154回(2016年) 日本の旗 モーリス
第156回(2017年) 日本の旗 キタサンブラック
第158回(2018年) 日本の旗 レイデオロ
第160回(2019年) 日本の旗 アーモンドアイ
第162回(2020年) 日本の旗 アーモンドアイ
第164回(2021年) 日本の旗 エフフォーリア
第166回(2022年) 日本の旗 イクイノックス
第168回(2023年) 日本の旗 イクイノックス

日本の旗 有馬記念勝ち馬
   

国際競走指定前:
01回(1956年) メイヂヒカリ
02回(1957年) ハクチカラ
03回(1958年) オンワードゼア
04回(1959年) ガーネツト
05回(1960年) スターロツチ
06回(1961年) ホマレボシ
07回(1962年) オンスロート
08回(1963年) リユウフオーレル
09回(1964年) ヤマトキヨウダイ
第10回(1965年) シンザン
第11回(1966年) コレヒデ
第12回(1967年) カブトシロー
第13回(1968年) リュウズキ
第14回(1969年) スピードシンボリ
第15回(1970年) スピードシンボリ
第16回(1971年) トウメイ
第17回(1972年) イシノヒカル
第18回(1973年) ストロングエイト
第19回(1974年) タニノチカラ
第20回(1975年) イシノアラシ
第21回(1976年) トウショウボーイ
第22回(1977年) テンポイント
第23回(1978年) カネミノブ

第24回(1979年) グリーングラス
第25回(1980年) ホウヨウボーイ
第26回(1981年) アンバーシャダイ
第27回(1982年) ヒカリデユール
第28回(1983年) リードホーユー
第29回(1984年) シンボリルドルフ
第30回(1985年) シンボリルドルフ
第31回(1986年) ダイナガリバー
第32回(1987年) メジロデュレン
第33回(1988年) オグリキャップ
第34回(1989年) イナリワン
第35回(1990年) オグリキャップ
第36回(1991年) ダイユウサク
第37回(1992年) メジロパーマー
第38回(1993年) トウカイテイオー
第39回(1994年) ナリタブライアン
第40回(1995年) マヤノトップガン
第41回(1996年) サクラローレル
第42回(1997年) シルクジャスティス
第43回(1998年) グラスワンダー
第44回(1999年) グラスワンダー
第45回(2000年) テイエムオペラオー
第46回(2001年) マンハッタンカフェ
第47回(2002年) シンボリクリスエス

第48回(2003年) シンボリクリスエス
第49回(2004年) ゼンノロブロイ
第50回(2005年) ハーツクライ
第51回(2006年) ディープインパクト

国際競走(G1)指定後:
第52回(2007年) 日本の旗 マツリダゴッホ
第53回(2008年) 日本の旗 ダイワスカーレット
第54回(2009年) 日本の旗 ドリームジャーニー
第55回(2010年) 日本の旗 ヴィクトワールピサ
第56回(2011年) 日本の旗 オルフェーヴル
第57回(2012年) 日本の旗 ゴールドシップ
第58回(2013年) 日本の旗 オルフェーヴル
第59回(2014年) 日本の旗 ジェンティルドンナ
第60回(2015年) 日本の旗 ゴールドアクター
第61回(2016年) 日本の旗 サトノダイヤモンド
第62回(2017年) 日本の旗 キタサンブラック
第63回(2018年) 日本の旗 ブラストワンピース
第64回(2019年) 日本の旗 リスグラシュー
第65回(2020年) 日本の旗 クロノジェネシス
第66回(2021年) 日本の旗 エフフォーリア
第67回(2022年) 日本の旗 イクイノックス
第68回(2023年) 日本の旗 ドウデュース