ホウヨウボーイ

ホウヨウボーイ
欧字表記 Hoyo Boy[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1]
生誕 1975年4月15日[1]
死没 1982年5月30日(8歳没)
ファーストファミリー[1]
ホウヨウクイン[1]
母の父 レアリーリーガル[1]
生国 日本の旗 日本北海道新冠町
生産者 豊洋牧場[1]
馬主 古川嘉平[2][3]
→古川嘉治[1][4]
調教師 二本柳俊夫[1]中山 - 美浦南
厩務員 菅原重次郎[5]
→不明
競走成績
タイトル 優駿賞年度代表馬(1980-81年)[1]
優駿賞最優秀5歳以上牡馬(1980-81年)[1]
生涯成績 19戦11勝[1]
獲得賞金 2億7466万0000円[1]
勝ち鞍
八大競走 有馬記念 1980年
八大競走 天皇賞(秋) 1981年
重賞 日経賞 1980年
重賞 アメリカJCC 1981年
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ホウヨウボーイ(欧字名:Hoyo Boy1975年4月15日 - 1982年5月30日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1980年から1981年にかけて、シンザン以来2頭目となる2年連続年度代表馬(優駿賞年度代表馬)を受賞。同様に2年連続で優駿賞最優秀5歳以上牡馬を受賞した[注釈 1]

主な勝ち鞍は、1980年の有馬記念、1981年の天皇賞(秋)

生涯

デビューまで

母のホウヨウクインは、北海道新冠町の豊洋牧場で生まれた牝馬である[2][8]。父のレアリーリーガルは、1965年に牧場長の古川博が輸入した種牡馬であった[2][注釈 2]。競走馬として7戦2勝の成績を残して繁殖牝馬となり[8]、初年度の1974年は父アバーナントニセイの牡馬(後のホウヨウブラザー)を出産した[10]

続く2年目は、日本供用初年度であるファーストファミリーを配合した[2]。ファーストファミリーは、アメリカの競走馬としてガルフストリームパークハンデキャップなど7勝を挙げた[11]セクレタリアトの半弟であり高値であったが、1973年に古川が1億4000万円で購入し、日本に輸入された[2][11]

1975年4月15日、豊洋牧場にて栗毛の牡馬(後のホウヨウボーイ)が誕生[2]。産まれた仔は歩様に関する評価が高く、さらに馬追い運動では常に他の馬を率いるほどであり、他に迷惑をかけないように放牧の際には独りにさせられた[2]。古川博の父で先代にあたる古川嘉平は、仔を「これはよく出来た。うちの一番馬だ。」と話し、記念に赤飯を炊いていた[2]

仔は将来性があり、ある馬主に1000万円での購入の約束を取り付けた[2]。しかし、その馬主は日本供用初年度で走るかどうか不明であったファーストファミリー産駒を嫌い、半額の値切りを要求したが、牧場はそれを呑まずに約束は破談となった[2][12]。売れ残ったホウヨウボーイは古川嘉平の名義[注釈 3]で3歳秋に二本柳俊夫厩舎に入厩した[2][3]

競走馬時代

3-6歳(1977-80年)

1977年12月4日、中山競馬場の新馬戦(芝1200メートル)に加藤和宏が騎乗して1番人気でデビュー、後方に6馬身差をつけて初勝利を挙げた[2]。レース後に、右前脚管骨を骨折して長期離脱となった。半年の休養を経て1978年夏に調教を再開したが、患部の反対側である左前脚管骨を骨折。2度の骨折に古川博は、引退して乗馬に転用することを二本柳に提案した[2]。しかし、二本柳はホウヨウボーイに高い素質があることと、骨折後に天皇賞(秋)有馬記念を制したタニノチカラを例に出して提案を取り下げさせ、現役を続行することとなった[2][12]。5歳となった1979年8月24日、函館競馬場の条件戦で1年9か月ぶりに復帰。後方に3馬身差をつけて連勝とし、それから6戦4勝2着2回の成績で条件戦を突破した[2]

オープン昇格後、6歳となった1980年3月30日の日経賞重賞初出走となり、中山の重賞3連勝中のヨシノスキーや有馬記念優勝馬のカネミノブらを下して重賞初優勝となった[2][12]。それから天皇賞(秋)を目標に据えて、笹針治療を施し休養。夏を函館競馬場で過ごし、大沼ステークス勝利、東京競馬場のオープン競走で2着[12]。11月23日、目標の天皇賞(秋)ではカツラノハイセイコに次ぐ2番人気に推されたが、初めて掲示板を外す7着に敗れた。左回りの実績がないことや3200mが初めてであること、また、参戦10日ほど前に後ろ脚にクモズレ(擦過傷)を起こし、万全な状態ではなかったことが敗因として考えられた[2]

有馬記念のファン投票5位に推されて、12月21日の有馬記念に参戦、クモズレが癒えた状態で4番人気となった[2]。最終コーナーにて逃げたサクラシンゲキをカツラノハイセイコが外から捕えて先頭となり、ホウヨウボーイは残り200メートル地点で内からカツラノハイセイコに迫った。お互いに一歩も譲らなかったが、ハナ差30cmだけホウヨウボーイが抜け出して優勝[5][13]。騎乗した加藤は「これで先生(二本柳師)にやっと一つだけ恩返しができました。それにホウヨウボーイの強さを証明できたことが何よりもうれしいですね[5]」と話している。1980年の八大競走は、優勝馬がすべて異なっており、ホウヨウボーイは有馬記念を制したことで優駿賞年度代表馬優駿賞最優秀5歳以上牡馬[1]を受賞した[5]

7-8歳(1981-82年)

1981年は、天皇賞(春)を目標に、1月アメリカジョッキークラブカップから始動し、逃げ切り勝利。続く中山記念で2着になった10日後に両前脚に骨膜炎を発症したため、天皇賞(春)を回避した[5]。9月のオールカマーで半年ぶりに復帰したが、馬っ気を出し、汗を多量にかくなどの状態で出走、直線で伸びることなく5着に敗れた[5]

10月25日、目標の天皇賞(秋)に出走。1番人気こそ宝塚記念優勝馬のカツアールに譲ったが2番人気に推される[14]。スタートからモンテプリンスがハナを奪い、ホウヨウボーイは2番手に位置、やがて先頭をハセシノブに譲り、それぞれ2、3番手で進んだ[15]。直線でモンテプリンスがハセシノブをかわして先頭に立つのを待って内からホウヨウボーイが迫る。3番手以下を大きく引き離したマッチレースはゴールまで続いた[15]写真判定の結果、ホウヨウボーイがハナ差先着し優勝。走破タイムの3分18秒9は、1968年優勝のニットエイトが13年間保持したレコードタイムを更新、また7歳馬の天皇賞(秋)優勝は初めてであった[14]。加藤は「勝っているとは思わなかった。ゴールしたとき負けたとも思わなかった[6]」と述べた。また、「直線で菅原さんのソレ、ソレという応援が聞こえた[6]」とレース2週間前に脳卒中で倒れ2日前に亡くなった担当厩務員の菅原重次郎への弔いの言葉を述べた[6]。(レースに関する詳細は第84回天皇賞を参照。)

その後は、ジャパンカップに3番人気で出走するも、タクラマカンが発走直前にゲートを突き破った際に、その音でホウヨウボーイはゲートが開いたと思い突進。ゲートは閉まったままで顔面をゲートの鉄パイプ部分にぶつけ、歯を3本折る大怪我を負ってしまい[16]、流血しながら走り6着敗退[6]。(レースに関する詳細は、第1回ジャパンカップを参照。)続いてファン投票1位かつ1番人気に推されて、有馬記念に出走。好位につけて直線で抜け出したが、同じ二本柳厩舎の後輩であるアンバーシャダイにかわされ、2馬身半遅れて2着に敗れた[6]

年末表彰では、2年連続で優駿賞年度代表馬および優駿賞最優秀4歳以上牡馬][1]を受賞[6]。8歳となった1982年1月10日、中山競馬場にて引退式が挙行された[6]

種牡馬時代

アメリカから2億円、日本中央競馬会から1億5000万円の種牡馬としてのオファーがあったが、日高地方で繋養するためにそれらを断った[17]日高軽種馬農協門別種馬場にて種牡馬となり[18]、古川博を理事にシンジケートが結成。一口254万円、総勢55口は、2時間かからず満口となった[17]

種牡馬1年目の1982年、48頭目のアサヒバージに種付けを行った直後の5月30日午前中に横たわってしまい、鼻から血と胃の内容物を噴き出した[18][19]。対処方法は鎮静剤のみで手の施しようがなく、その日の午後9時半過ぎに死亡した[17]。同時に父ファーストファミリーが疝痛に襲われていたが、救命に成功している。ホウヨウボーイは翌日に解剖され、胃破裂と診断された[17][20]。破裂を誘発する症状がどこにも見られなかったため原因は不明とされている[17]が、古川博は「現役時代からよく腹痛を起こす繊細な神経を持った馬でした。人間でいえばストレスみたいなもので胃の壁が傷んでいたのでしょう。引き金は種付けだったんでしょうか。今思えば死ぬ20日ぐらい前から付けた馬に不受胎馬が多く、そこに死の伏線があったんですかね。(後略)[17]」と語っている。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[21]およびJBISサーチ[22]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)

オッズ(人気) 着順 タイム 0騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬)
1977.12.04 中山 3歳新馬 芝1200m(良) 18 6 11 03.2(1人) 01着 01:12.3 0加藤和宏 52 (ロイヤルマウンテン)
1979.08.24 函館 4歳上400万下 芝1700m(良) 10 5 5 03.2(1人) 01着 01:43.8 0加藤和宏 56 (ハジメクール)
0000.10.06 中山 美駒特別 芝1600m(重) 13 4 5 02.0(1人) 02着 01:36.9 0加藤和宏 56 シンセイギク
0000.10.20 中山 富里特別 芝1600m(重) 11 2 2 01.7(1人) 01着 01:37.1 0加藤和宏 56 (コクサイスマイル)
0000.11.18 東京 奥多摩特別 芝2000m(不) 9 3 3 02.7(1人) 01着 02:06.1 0加藤和宏 56 (ヤシャオー)
0000.12.09 中山 清澄特別 芝2000m(良) 15 7 13 02.3(1人) 01着 02:04.1 0加藤和宏 56 (マークリフブキ)
1980.02.23 中山 香取特別 芝2200m(良) 14 1 1 03.9(1人) 02着 02:15.9 0加藤和宏 57 ボストンメリー
0000.03.15 中山 ブラッドストーンS 芝2000m(稍) 15 8 15 01.9(1人) 01着 02:05.1 0加藤和宏 56 (イシノタイカン)
0000.03.30 中山 日経賞 芝2500m(不) 10 7 8 04.3(2人) 01着 02:41.9 0加藤和宏 54 (ヨシノスキー)
0000.08.24 函館 大沼S 芝2000m(不) 14 4 6 01.9(1人) 01着 02:04.7 0加藤和宏 55 (モンテリボー)
0000.10.25 東京 4歳上オープン 芝1800m(不) 5 3 3 02.7(1人) 02着 01:53.9 0加藤和宏 56 スイートネイティブ
0000.11.23 東京 天皇賞(秋) 芝3200m(重) 11 7 8 06.1(2人) 07着 03:30.4 0加藤和宏 58 プリテイキャスト
0000.12.21 中山 有馬記念 芝2500m(良) 12 3 3 10.2(4人) 01着 02:33.7 0加藤和宏 56 カツラノハイセイコ
1981.01.18 中山 アメリカJCC 芝2500m(良) 10 7 7 02.8(1人) 01着 02:37.5 0加藤和宏 57 (サーペンプリンス)
0000.03.08 中山 中山記念 芝1800m(良) 10 5 5 02.1(1人) 02着 01:50.8 0加藤和宏 58 キタノリキオー
0000.09.20 中山 オールカマー 芝2000m(重) 9 7 7 02.0(1人) 05着 02:04.8 0加藤和宏 59 ハセシノブ
0000.10.25 東京 天皇賞(秋) 芝3200m(良) 16 1 2 10.3(2人) 01着 03:18.9 0加藤和宏 58 モンテプリンス
0000.11.22 東京 ジャパンカップ 芝2400m(良) 15 2 2 07.1(3人) 06着 02:26.1 0加藤和宏 57 メアジードーツ
0000.12.20 中山 有馬記念 芝2500m(良) 16 7 13 03.8(1人) 02着 02:35.9 0加藤和宏 56 アンバーシャダイ

主な産駒

エピソード

"ターフのフェミニスト"

引退後に、日本中央競馬会がホウヨウボーイのニックネームを公募し「ターフのフェミニスト」が当選した[26]。これは、現役のホウヨウボーイが牝馬に弱いとされていたことに由来する[26]。敗れた8戦中6戦は牝馬(シンセイギク[27]、ボストンメリー[28]スイートネイティブ[29]プリテイキャスト[30]、ハセシノブ[31]メアジードーツ[32])であった[26]

評価

  • 「あなたが選ぶ永遠のアイドルホース200選」- 5位(1982年7月、日本中央競馬会主催、ファン投票[18]

血統表

ホウヨウボーイ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ロイヤルチャージャー系
[§ 2]

*ファーストファミリー
First Family
1962 栗毛
父の父
First Landing
1956 鹿毛
Turn-to Royal Charger
Source Sucree
Hildene Bubbling Over
Fancy Racket
父の母
Somethingroyal
1952 鹿毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Imperatrice Caruso
Cinquepace

ホウヨウクイン
1969 鹿毛
*レアリーリーガル
Really Regal
1962 栃栗毛
Royal Charger Nearco
Sun Princess
Fresh Air Fair Trial
Refreshed
母の母
豊隼
1962 芦毛
*フェリオール
Ferriol
Fastnet
Aisse
ダツシングラス ダツシング
第弐フラツシングラス
母系(F-No.) フラストレート系(FN:1-b) [§ 3]
5代内の近親交配 Royal Charger 4×3、Pharos 5・5(母系内) [§ 4]
出典
  1. ^ [33]
  2. ^ [34]
  3. ^ [35][33]
  4. ^ [33]


  • 半妹ミヤマビューティーの曾孫にナランフレグ(2022年高松宮記念)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 啓衆社賞時代を含めず、史上初と記述している出典もある[6][7]
  2. ^ 古川嘉平が輸入したと記述している出典もある[9]
  3. ^ デビュー時から古川嘉治名義としている出典もある[12]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “ホウヨウボーイ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 優駿1988年11月号, p. 24.
  3. ^ a b 101頭の死に方, p. 242.
  4. ^ 101頭の死に方, p. 246.
  5. ^ a b c d e f 優駿1988年11月号, p. 25.
  6. ^ a b c d e f g h 優駿1988年11月号, p. 27.
  7. ^ 101頭の死に方, p. 238.
  8. ^ a b “ホウヨウクイン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  9. ^ 101頭の死に方, p. 241.
  10. ^ “繁殖牝馬情報:牝系情報|ホウヨウクイン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  11. ^ a b 名馬を読む2, p. 123.
  12. ^ a b c d e 名馬を読む2, p. 124.
  13. ^ 101頭の死に方, p. 247.
  14. ^ a b 優駿1988年11月号, p. 26.
  15. ^ a b 名馬を読む2, p. 131.
  16. ^ 『優駿』2010年12月号、32頁。 
  17. ^ a b c d e f 優駿1988年11月号, p. 23.
  18. ^ a b c 優駿1988年11月号, p. 22.
  19. ^ “繁殖牝馬情報:牝系情報|アサヒバージ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  20. ^ 名馬を読む2, p. 133.
  21. ^ “ホウヨウボーイの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2020年1月17日閲覧。
  22. ^ “競走成績:年度別累計成績/主な成績|ホウヨウボーイ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  23. ^ “ベストボーイ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
  24. ^ “ドントップ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
  25. ^ “ヘイアンユウボーイ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
  26. ^ a b c 名馬を読む2, p. 128.
  27. ^ “シンセイギク|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  28. ^ “ボストンメリー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  29. ^ “スイートネイテイブ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  30. ^ “プリテイキヤスト|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  31. ^ “ハセシノブ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  32. ^ “Mairzy Doates(USA)|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  33. ^ a b c “血統情報:5代血統表|ホウヨウボーイ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年9月5日閲覧。
  34. ^ 小林皓正(編)『サラブレッド血統マップ'93』コスモヒルズ、1993年、54-55頁。 
  35. ^ 『優駿』1981年12月号、日本中央競馬会、74頁

参考文献

  • 江面弘也『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日。ISBN 4908655146。 
「ホウヨウボーイ 不屈の馬の名勝負vsカツラノハイセイコ、モンテプリンス」
  • 『優駿』1988年11月号、中央競馬ピーアール・センター、1988年11月1日。 
横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 33】晩成の少年 ホウヨウボーイ」
  • 大川慶次郎他『サラブレッド101頭の死に方』徳間書店、1999年10月15日。ISBN 4198911851。 
「ホウヨウボーイ」

外部リンク

  • 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ
 
表彰・GI勝ち鞍
啓衆社賞
優駿賞
JRA賞
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
(旧)最優秀5歳以上牡馬
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
最優秀4歳以上牡馬
2000年代
2010年代
2020年代
  • 1 2001年より馬齢表記法が数え年から満年齢に移行
    *2 1954-1971年は「啓衆社賞」、1972-1986年は「優駿賞」として実施
日本の旗 有馬記念勝ち馬
   

国際競走指定前:
01回(1956年) メイヂヒカリ
02回(1957年) ハクチカラ
03回(1958年) オンワードゼア
04回(1959年) ガーネツト
05回(1960年) スターロツチ
06回(1961年) ホマレボシ
07回(1962年) オンスロート
08回(1963年) リユウフオーレル
09回(1964年) ヤマトキヨウダイ
第10回(1965年) シンザン
第11回(1966年) コレヒデ
第12回(1967年) カブトシロー
第13回(1968年) リュウズキ
第14回(1969年) スピードシンボリ
第15回(1970年) スピードシンボリ
第16回(1971年) トウメイ
第17回(1972年) イシノヒカル
第18回(1973年) ストロングエイト
第19回(1974年) タニノチカラ
第20回(1975年) イシノアラシ
第21回(1976年) トウショウボーイ
第22回(1977年) テンポイント
第23回(1978年) カネミノブ

第24回(1979年) グリーングラス
第25回(1980年) ホウヨウボーイ
第26回(1981年) アンバーシャダイ
第27回(1982年) ヒカリデユール
第28回(1983年) リードホーユー
第29回(1984年) シンボリルドルフ
第30回(1985年) シンボリルドルフ
第31回(1986年) ダイナガリバー
第32回(1987年) メジロデュレン
第33回(1988年) オグリキャップ
第34回(1989年) イナリワン
第35回(1990年) オグリキャップ
第36回(1991年) ダイユウサク
第37回(1992年) メジロパーマー
第38回(1993年) トウカイテイオー
第39回(1994年) ナリタブライアン
第40回(1995年) マヤノトップガン
第41回(1996年) サクラローレル
第42回(1997年) シルクジャスティス
第43回(1998年) グラスワンダー
第44回(1999年) グラスワンダー
第45回(2000年) テイエムオペラオー
第46回(2001年) マンハッタンカフェ
第47回(2002年) シンボリクリスエス

第48回(2003年) シンボリクリスエス
第49回(2004年) ゼンノロブロイ
第50回(2005年) ハーツクライ
第51回(2006年) ディープインパクト

国際競走(G1)指定後:
第52回(2007年) 日本の旗 マツリダゴッホ
第53回(2008年) 日本の旗 ダイワスカーレット
第54回(2009年) 日本の旗 ドリームジャーニー
第55回(2010年) 日本の旗 ヴィクトワールピサ
第56回(2011年) 日本の旗 オルフェーヴル
第57回(2012年) 日本の旗 ゴールドシップ
第58回(2013年) 日本の旗 オルフェーヴル
第59回(2014年) 日本の旗 ジェンティルドンナ
第60回(2015年) 日本の旗 ゴールドアクター
第61回(2016年) 日本の旗 サトノダイヤモンド
第62回(2017年) 日本の旗 キタサンブラック
第63回(2018年) 日本の旗 ブラストワンピース
第64回(2019年) 日本の旗 リスグラシュー
第65回(2020年) 日本の旗 クロノジェネシス
第66回(2021年) 日本の旗 エフフォーリア
第67回(2022年) 日本の旗 イクイノックス
第68回(2023年) 日本の旗 ドウデュース

   

国際競走指定前:
001回(1937年) ハツピーマイト
003回(1938年) ヒサトモ
005回(1939年) テツモン
007回(1940年) ロツキーモアー
009回(1941年) エステイツ
011回(1942年) ニパトア
013回(1943年) クリヒカリ
016回(1947年) トヨウメ
018回(1948年) カツフジ
020回(1949年) ニユーフオード
022回(1950年) ヤシマドオター
024回(1951年) ハタカゼ
026回(1952年) トラツクオー
028回(1953年) クインナルビー
030回(1954年) オパールオーキツト
032回(1955年) ダイナナホウシユウ
034回(1956年) ミツドフアーム
036回(1957年) ハクチカラ
038回(1958年) セルローズ
040回(1959年) ガーネツト
042回(1960年) オーテモン
044回(1961年) タカマガハラ
046回(1962年) クリヒデ
048回(1963年) リユウフオーレル
050回(1964年) ヤマトキヨウダイ
052回(1965年) シンザン
054回(1966年) コレヒデ
056回(1967年) カブトシロー

058回(1968年) ニットエイト
060回(1969年) メジロタイヨウ
062回(1970年) メジロアサマ
064回(1971年) トウメイ
066回(1972年) ヤマニンウエーブ
068回(1973年) タニノチカラ
070回(1974年) カミノテシオ
072回(1975年) フジノパーシア
074回(1976年) アイフル
076回(1977年) ホクトボーイ
078回(1978年) テンメイ
080回(1979年) スリージャイアンツ
082回(1980年) プリテイキャスト
084回(1981年) ホウヨウボーイ
086回(1982年) メジロティターン
088回(1983年) キョウエイプロミス
090回(1984年) ミスターシービー
092回(1985年) ギャロップダイナ
094回(1986年) サクラユタカオー
096回(1987年) ニッポーテイオー
098回(1988年) タマモクロス
第100回(1989年) スーパークリーク
第102回(1990年) ヤエノムテキ
第104回(1991年) プレクラスニー
第106回(1992年) レッツゴーターキン
第108回(1993年) ヤマニンゼファー
第110回(1994年) ネーハイシーザー
第112回(1995年) サクラチトセオー
第114回(1996年) バブルガムフェロー

第116回(1997年) エアグルーヴ
第118回(1998年) オフサイドトラップ
第120回(1999年) スペシャルウィーク
第122回(2000年) テイエムオペラオー
第124回(2001年) アグネスデジタル
第126回(2002年) シンボリクリスエス
第128回(2003年) シンボリクリスエス
第130回(2004年) ゼンノロブロイ

国際競走指定後:
第132回(2005年) 日本の旗 ヘヴンリーロマンス
第134回(2006年) 日本の旗 ダイワメジャー
第136回(2007年) 日本の旗 メイショウサムソン
第138回(2008年) 日本の旗 ウオッカ
第140回(2009年) 日本の旗 カンパニー
第142回(2010年) 日本の旗 ブエナビスタ
第144回(2011年) 日本の旗 トーセンジョーダン
第146回(2012年) 日本の旗 エイシンフラッシュ
第148回(2013年) 日本の旗 ジャスタウェイ
第150回(2014年) 日本の旗 スピルバーグ
第152回(2015年) 日本の旗 ラブリーデイ
第154回(2016年) 日本の旗 モーリス
第156回(2017年) 日本の旗 キタサンブラック
第158回(2018年) 日本の旗 レイデオロ
第160回(2019年) 日本の旗 アーモンドアイ
第162回(2020年) 日本の旗 アーモンドアイ
第164回(2021年) 日本の旗 エフフォーリア
第166回(2022年) 日本の旗 イクイノックス
第168回(2023年) 日本の旗 イクイノックス