盛山毅

もりやま たけし
盛山 毅
プロフィール
出身地 日本の旗 日本 東京都
生年月日 (1941-01-01) 1941年1月1日(83歳)
最終学歴 慶應義塾大学法学部政治学科
職歴フジテレビアナウンサー
〈1964年 - 1987年〉、広報部長→美術局長→共同テレビ専務取締役→顧問
活動期間 1964年 - 1987年(フジテレビアナウンサー)
配偶者 既婚
担当番組・活動
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

盛山 毅(もりやま たけし、1941年(昭和16年)1月1日[1] - )は、東京都出身の元アナウンサー

来歴・人物

東京都立西高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科卒業後の1964年フジテレビへ入社[1]。同学年で同じフジテレビアナウンサーかつ友人でもあった露木茂よりも1年遅れての入社であった。また、高校の同級生に元JR東海葛西敬之がいる。

1960年代後半から1980年代前半にかけて数々の競馬実況を行い、1973年からは東京優駿の実況を毎年行ってきた鳥居滋夫の後を受け、1986年まで同競走の実況を務める。その間はフジテレビ競馬中継のメイン実況者として、関西テレビ杉本清と共にフジ系列の競馬中継の「顔」として君臨[1]
全盛期には単枠指定制度が採用されていたことから、それを生かし、レースにおける1頭ないし2頭の要注目馬を中心に据えて実況を組み立てた。平等な目線で実況を行う事がセオリーであった1970年代当時としては異色のスタイルを確立。注目馬・本命馬が勝った時は心から称え、波乱が起こった時は驚きのリアクションを見せるなど、競馬を見ているファンの心情を感情として伝える実況を行った。「ぽーんぽーんぽーん」「ぐいっぐいっと」「するするっと」「ぐんぐんぐんぐん」等、擬音表現の多用が特徴のひとつともなっていた。

また、競馬中継だけでなく、『プロ野球ニュース』の進行役やプロ野球中継の実況でもおなじみであった。プロ野球の実況では1978年10月4日ヤクルト-中日戦(神宮)におけるヤクルトのリーグ初優勝や[2]1982年10月18日中日[3]1984年10月4日広島(ともに横浜スタジアム大洋戦)の優勝決定試合を担当[4] [5]王貞治の通算500号本塁打1972年6月6日[6])、通算563号本塁打(1973年8月8日[7][8]も実況している。

その後ら1987年アナウンス職を離れ、広報部長[9]、美術局長などを経て、1997年共同テレビに移籍。専務取締役[10]を経て顧問[1]

実況語録

『ハイセイコー負けるか?!(略)あと200だ、あと200しかないよ!』(1973年NHK杯)

『ハイセイコーは3番手!ちょっと届きそうもありません!(略)鞭を入れながらタケホープ優勝(略)嶋田功騎手、鞭を高く挙げました!』(1973年東京優駿)

『頑張れカブラヤオー!勝てそうだ、勝てそうだ、カブラヤオー勝った!カブラヤオーと、そして菅原泰夫、よく逃げ切れました!』(1975年東京優駿)

『トウショウボーイは勝てそうにない!トウショウボーイは2着!このレースが後にどんな評価を受けるかは分かりません。しかしクライムカイザー1着、トウショウボーイ2着という事実はあります』(1976年東京優駿)

『完全に外国の馬が勝ちました!日本は完全に敗れました!』(1981年ジャパンカップ)

『ミスターシービーが優勝!ミスターシービー物凄い競馬をやりました(略)ミスターシービーからミスターサラブレッドへ、見事な勝利です』(1983年東京優駿)

『シンボリルドルフ、初めて苦しい競馬をいたしました(略)日本のサラブレッドから、世界のサラブレッドへの第一関門見事に突破いたしました!』(1984年東京優駿)

『ルドルフ頑張れ、カツラギエースも頑張った!カツラギエースを追ってルドルフ!(略)カツラギエースが勝ちました!』(1984年ジャパンカップ)

『ルドルフ出た、カツラギ頑張る、シービー3番手まで!(略)優勝はシンボリルドルフ!今年の日本一、そして日本の競馬をまた塗り替えました!あるいはシンザンを超えたと言っても過言では無いでしょう!』(1984年有馬記念)

『ルドルフが圧勝!2着にもロッキータイガー!日本の中央競馬、公営競馬のナンバーワン同士が1着2着を分け合いました!皇帝の強さを世界の前に見せつけました!』(1985年ジャパンカップ)

『世界のルドルフ、やはり強い!(略)日本でもうやる競馬はありません。あとは世界だけ!世界の舞台でその強さをもう一度見せてください、シンボリルドルフ!』(1985年有馬記念)

主な実況歴

GIレース

日本国内
海外

その他

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d 週刊Gallop 臨時増刊『日本ダービー80年史』「井崎脩五郎×鈴木淑子×盛山毅×堺正幸×福原直英座談会」より
  2. ^ 1978年10月4日付 産経新聞テレビ欄など各紙テレビ欄。
  3. ^ 1982年10月18日付 産経新聞テレビ欄など各紙テレビ欄。
  4. ^ 1984年10月4日付 産経新聞テレビ欄など各紙テレビ欄。
  5. ^ いずれも横浜スタジアムでの大洋戦。
  6. ^ 1972年6月6日付 産経新聞テレビ欄など各紙テレビ欄。
  7. ^ 1973年8月8日付 産経新聞テレビ欄など各紙テレビ欄。
  8. ^ この本塁打で王は当時通算本塁打数1位だった野村克也と並んだ。
  9. ^ 「フジテレビのTV番組「ザ・ガマン」を英紙がヤリ玉」 1987年4月10日 毎日新聞東京朝刊
  10. ^ 共同テレビジョン - 会社案内
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