松平信清

 
凡例
松平信清
時代 江戸時代中期
生誕 元禄2年10月18日(1689年11月29日[1]
死没 享保9年5月19日(1724年7月9日
改名 仁十郎(幼名)→信清
戒名 玄徳院殿性山道崇大居士
墓所 東京都新宿区富久町の自証院
官位 従四位下、侍従越前
幕府 江戸幕府
上野吉井藩
氏族 鷹司松平家
父母 父:松平信政、母:森長継娘・大姫
津軽信寿の娘
信友、潔姫ら
テンプレートを表示

松平 信清(まつだいら のぶきよ)は、上野吉井藩の初代藩主。鷹司松平家3代。

生涯

旗本松平信政の長男。元禄4年12月5日(1692年1月22日)、7000石の家督を継ぐ。元禄12年(1699年)3月28日、将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄16年12月21日(1704年1月27日)、従四位下・侍従・越前守に叙任する。宝永6年(1709年)、多胡郡など3000石を加増されて合計1万石を領する大名となる。1万石の小大名でありながら、徳川将軍家御台所の縁者であり[2]鷹司家紀州徳川家の血筋を引く家であることから、徳川家一門ならびに国主格の待遇を受けた。さらに江戸城内では御三家加賀前田家と同格の大廊下(下之間)の格式を幕末まで受けることになる。享保9年(1724年)5月19日に36歳で死去し、跡を長男の信友が継いだ。

系譜

父母

正室

子女

脚注

  1. ^ 「明治二十六年正月 吉井藩主系図」(『群馬県史 資料編9(近世1 西毛地域1)』(群馬県、1977年)p.173)
  2. ^ 加増の年に死去した綱吉の御台所鷹司信子、また綱吉の父徳川家光の御台所鷹司孝子が鷹司家の出身であった。
三つ葉葵紋鷹司松平家3代当主(1691年 - 1724年)
紀伊徳川家
(宗家)

頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 1958-1965 | 宜子1965-現在

分家・支流

御連枝
(松平家)
西条松平家
高森松平家

頼職 | 断絶

葛野松平家

頼方 | 断絶

鷹司松平家
鷹司松平家吉井藩初代藩主 (1709年 - 1724年)
菅沼家

1610年から1682年まで公儀御料・旗本諸領

堀田家

1698年から1709年まで公儀御料

鷹司松平家