第37回日本選手権競輪

第37回日本選手権競輪(だい37かい にほんせんしゅけんけいりん)は、1984年千葉競輪場で行われた。

決勝戦

着順 車番 選手 登録地
1 2 滝澤正光 千葉県
2 9 井上茂徳 佐賀県
3 3 山口健治 東京都
4 4 梨野英人 香川県
5 6 大橋秀人 北海道
6 7 中野浩一 福岡県
7 5 吉井秀仁 千葉県
8 8 清嶋彰一 東京都
9 1 菅田順和 宮城県
  • 払戻金
    • 連勝単式(枠番連勝単式) 2-6 2020円

レース概要

並びは梨野-中野-井上、大橋-菅田-山口、清嶋-滝澤-吉井という形で、一見見れば三分戦の様相を呈していた。

ところが残りあと2周を通過して時点で、菅田が山口を連れて上昇し、菅田-山口-大橋が外に回って梨野-中野-井上を内に封じ込める策に出た。ジャンが鳴り、後方に構えた清嶋が、滝澤-吉井を連れて一気にカマシに打って出て、清嶋は残りあと1周地点で先頭に立った。この動きに対し、中野が500mバンクの千葉であるにもかかわらず、梨野を捨て、井上を連れて最終1センター付近より捲って出るが、山口に動きを封じ込められたため、インを突くのが精一杯となった。一方、2センター付近で滝澤が清嶋を番手捲り。そして、中野がインに封じ込められたと見るや、井上が滝澤後位につけ、直線では滝澤と井上のデッドヒートとなったが、滝澤が井上を退け、地元の千葉で特別競輪(現在のGI)初優勝を果たした。

当時は中野、井上を中心とする九州軍団と、関東・南関東を中心としたフラワーラインが競輪界の二大勢力といわれたが、このレースでは、北日本の菅田と大橋もフラワーラインに与する格好となり、結果的に滝澤の優勝に貢献した形となった。

エピソード

  • 優勝した滝澤はその後感激のあまり、優勝インタビュー、表彰式でも涙が止まらなかった。そして表彰式後に、当時サイクルにっぽんのインタビュアーだった、したらじゅん子から受けたインタビューでも涙を抑え切れなかった。

外部リンク

  • 日本選手権競輪決勝戦の成績 - KEIRIN.JP
1940年代
  • 1949春 大阪住之江
  • 1949秋 川崎
1950年代
  • 1950 名古屋
  • 1951春 後楽園
  • 1951秋 大阪中央
  • 1952春 川崎
  • 1952秋 後楽園
  • 1953 大阪中央
  • 1954 川崎
  • 1955 大阪中央
  • 1956 後楽園
  • 1957 後楽園
  • 1958 後楽園
  • 1959 後楽園
1960年代
  • 1960 後楽園
  • 1961 中止
  • 1962 一宮
  • 1963 後楽園
  • 1964 後楽園
  • 1965 後楽園
  • 1966 後楽園
  • 1967 後楽園
  • 1968 後楽園
1970年代
1980年代
1990年代
  • 1990 平塚
  • 1991 一宮
  • 1992 前橋
  • 1993 立川
  • 1994 静岡
  • 1995 松戸
  • 1996 千葉
  • 1997 岸和田
  • 1998 西武園
  • 1999 静岡
2000年代
  • 2000 千葉
  • 2001 松戸
  • 2002 立川
  • 2003 平塚
  • 2004 静岡
  • 2005 松戸
  • 2006 立川
  • 2007 平塚
  • 2008 静岡
  • 2009 岸和田
2010年代
2020年代
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1983年
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