海野普吉

1921年

海野 普吉[注 1](うんの しんきち、1885年明治18年)8月29日 - 1968年昭和43年)7月6日[2])は、昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士

多くの思想裁判・政治裁判の弁護をする[注 2]。戦後は社会運動も行う。戦後初の最高裁判事も受けず、親友の片山哲内閣法務大臣も受けず、一貫して在野の弁護士であることを貫く[注 3]

経歴

第六高等学校時代1908年(明治41年)
  • 1908年:第六高等学校卒業
  • 1914年:東京帝国大学法学部卒業
  • 1914年:弁護士活動に入る
兄と両親と共に普吉(右端)1914年(大正3年)頃

手がけた事件

手がけた社会運動

脚注

注釈

  1. ^ 本来の名は「晋吉」と書いて「しんきち」と読ませるものだったが、届を受理した役所の人間が戸籍に「普吉」と誤記し、不精な性格の父親もあえて役所に訂正を求めなかった[1]
  2. ^ 自身はマルクス主義とは一線を画する自由主義者であったが、マルクス主義者を弁護する事件も相当こなした。常に被告のことを配慮する「やさしさ」は参考文献の各書が指摘するところである。
  3. ^ 法務大臣就任をオーケーしなかったのは、弁護士登録がいったん途切れることへの懸念から、とも言われる。

出典

  1. ^ 入江 (2011) 24頁
  2. ^ 海野普吉 - コトバンク
  3. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 46頁
  4. ^ 『朝日新聞』1967年3月17日付朝刊、15頁、「美濃部氏 後援団体の結成総会 政党の上に市民組織」。

参考文献

  • 海野普吉(潮見俊隆編)『ある弁護士の歩み』日本評論社、1968年
  • 「弁護士海野普吉」刊行委員会編『弁護士海野普吉』非売品、1972年
  • 潮見俊隆編著『日本の弁護士』日本評論社、1972年
  • 松岡英夫『人権擁護六十年――弁護士海野普吉』中公新書、1975年
  • 森長英三郎『日本弁護士列伝』社会思想社、1984年
  • 竹下甫『ある弁護士の置土産――海野普吉先生に学ぶ刑事弁護の精神』白順社、1996年
  • 入江耀子『思想は裁けるか――弁護士・海野普吉伝』筑摩選書、2011年

関連項目

外部リンク

  • 国立国会図書運憲政資料室 海野普吉関係文書
  • 「海野家の人々」
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
  • 成富信夫 (1970)
  • 渡部喜十郎 (1971)
  • 今井忠男 (1972)
  • 和島岩吉 (1973)
  • 堂野達也 (1974)
  • 辻誠 (1975)
  • 柏木博 (1976)
  • 宮田光秀 (1977)
  • 北尻得五郎 (1978)
  • 江尻平八郎 (1979)
1980年代
  • 谷川八郎 (1980-81)
  • 宮田光秀 (1981)
  • 山本忠義 (1982-83)
  • 石井成一 (1984-85)
  • 北山六郎 (1986-87)
  • 藤井英男 (1988-89)
1990年代
2000年代
2010年代
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