河井昭司
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県広島市福島町 |
生年月日 | (1949-11-11) 1949年11月11日 |
没年月日 | (2018-07-26) 2018年7月26日(68歳没) |
身長 体重 | 174 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1967年 ドラフト3位 |
初出場 | 1970年 |
最終出場 | 1973年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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河井 昭司(昭時)(かわい しょうじ、1949年(昭和24年)11月11日 - 2018年(平成30年)7月26日[1])は、広島県広島市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。
来歴・人物
広陵高校では1967年、3年生の時に中堅手、四番打者として夏の甲子園へ出場。宇根洋介(近大-電電中国)の好投もあり決勝に進出。しかし習志野高の石井好博、醍醐恒男のバッテリーに抑えられ敗退、準優勝にとどまった[2]。8月末からは宇根らとともに全日本高校選抜の一員としてハワイ・アメリカ西海岸遠征に参加した。
1967年ドラフト会議で広島カープから3位指名を受け入団。1971年にはウエスタン・リーグで当時のリーグ・タイ記録である8打席連続安打を放ち、将来を期待されたが、一軍には定着できなかった。
1972年オフに第3回選抜会議(トレード会議)の対象となり、ヤクルトアトムズへ移籍。しかしここでも活躍の場はなく、1974年に引退した。
引退後は、広島市西区福島町で焼肉かわいを経営していた[3]。カープ選手はじめ、古巣のヤクルト関係者や交流戦で広島に来るパリーグの選手も数多く来店していた[3]。同店は2018年の河井と翌年の夫人の死去によって閉店したが、そのことを惜しんだ地元のNPO法人「KKC」によって、2019年4月に再開店している[3]。
また、怪我で療養していた広島の天谷宗一郎も、自身のブログに「野球が出来ないつらい時期、よく電話で激励された…」と書き、メジャーに行った高橋建の相談役でもあった。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970 | 広島 | 3 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1971 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1973 | ヤクルト | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
通算:3年 | 6 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
背番号
- 53 (1968年 - 1972年)
- 41 (1973年 - 1974年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 河井昭司 - NPB.jp 日本野球機構
広島カープ - 1967年ドラフト指名選手 | |
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指名選手 |
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