水野元知

水野 元知(みずの もととも、正保元年(1644年) - 延宝8年9月8日(1680年10月30日))は、江戸時代前期の大名上野安中藩の第2代藩主。信濃守。正室は岡崎藩主・水野忠善の娘。側室に八重。子に元朝

正保元年(1644年)、安中藩の初代藩主・水野元綱の次男として生まれる。兄の元倫が早世したため嫡男となり、将軍徳川家綱に拝謁する。寛文4年(1664年)10月26日、父の隠居により跡を継いだ。ところが寛文7年(1667年)5月23日、発狂して妻を斬りつけるという事件を起こしたため、5月28日、幕命により不始末として改易され、身柄は信濃松本藩水野忠職預かりとされてしまった。発狂の理由は、側室の八重との間での諍いであると言われているほかにも諸説あり、詳しくわかっていない。長男の元朝に2,000俵(のちに2,000石)が給され、子孫は旗本として存続した。

延宝8年(1680年)9月8日に死去した。享年37。

水野氏安中藩2代藩主 (1664年 - 1667年)
井伊家
水野家
  • 水野元綱1648-1664
  • 水野元知1664-1667
  • 改易、子孫は旗本として存続
堀田家
板倉家
内藤家
板倉家