松平勝道

 
凡例
松平勝道
時代 江戸時代後期
生誕 文化10年1月13日(1813年2月13日
死没 慶応2年8月6日(1866年9月14日
改名 洪五郎(幼名)、定保(初名)、勝道
戒名 礼徳院
墓所 東京都江東区白河の霊巌寺
官位 従五位下若狭守駿河守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂
伊予今治藩
氏族 池田氏(屋形池田家)久松松平家定勝
父母 池田政行:松平正明の娘・清子
養父松平定芝
兄弟 池田政和、勝道、上杉義正室、戸田氏著室、松平定正室
正室松平定芝の3女・
3男11女
養子定法善子
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松平 勝道(まつだいら かつみち/かつつね)は、江戸時代後期の大名伊予国今治藩の第9代藩主。定房系久松松平家9代。官位従五位下若狭守駿河守

生涯

文化10年(1813年)1月13日、池田政行(第6代藩主・松平定休の6男)の次男として誕生。天保5年(1834年)3月26日に従兄で8代藩主・松平定芝の婿養子となり、同年12月22日に従五位下・若狭守に叙任する。天保8年(1837年)9月12日、定芝の死去により家督を相続した。

天保14年(1843年)10月1日から文久2年(1862年)閏8月23日まで奏者番を務めた。この間、弘化3年(1846年)12月には駿河守に転任、嘉永6年(1853年)、将軍が交代して徳川家定が就任すると、その偏諱(「定」の字)を避ける形で初名の定保(さだやす)から勝道に改名した[1]。藩政においては文治政策に尽力し、種痘を実施し、万延元年(1860年)には古江浜塩田を完成させるなどした。文久2年(1862年)11月21日、自身の養子となっていた定芝の三男・定法に家督を譲って隠居し、慶応2年(1866年)8月6日に死去した。享年54。

系譜

子女は3男11女

脚注

  1. ^ 「定」の字は、松平定勝(初代藩主定房の父)から始まる久松松平家において通字とされていたものであった。同様に改名した人物として松平定猷がいる。なお、改名後の「勝」は定勝から1字を取ったものである。(参考)
久松松平氏今治藩9代藩主 (1837年 - 1862年)
藤堂家
久松松平家