外木場義郎

外木場 義郎
「CARP Legend Game 2022」に出場した外木場義郎
(2022年3月21日、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鹿児島県出水市
生年月日 (1945-06-01) 1945年6月1日(78歳)
身長
体重
175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1965年
初出場 1965年4月21日
最終出場 1979年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2013年
得票率 76.3%(29票)
選出方法 競技者表彰(エキスパート部門)
この表について
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プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )は、鹿児島県出水市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者

現役時代は、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の広島カープ(1968年以降の球団名は「広島東洋カープ」)でエースとして活躍、1975年には球団史上初のリーグ優勝に貢献した。2リーグ制以降のプロ野球で、3回のノーヒットノーラン(うち完全試合1試合)を達成した唯一の投手である。

来歴

出水高校では1963年夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、鹿児島高のエース・竹之下五十三(のち西鉄)と投げ合い0-1で惜敗、甲子園出場を逃した。卒業後は電電九州に進み、1964年都市対抗に出場。1回戦でリリーフとして登板するが、北海道拓殖銀行に敗れた。[要出典]

村山実に憧れを抱き[1]阪神タイガースのスカウトが来ていたら必ず入団していたとされるが阪神からの誘いはなかった[2][要出典]。そして広島カープ大洋ホエールズ近鉄バファローズ東映フライヤーズの4球団からプロ入りの打診を受ける。結局、セ・リーグ希望であったことと、九州地方出身者が多かった理由で[3]、1964年9月に広島へ入団。

入団当時、外木場は曲がり落ちるカーブに自信を持っていたが、直球もエースの大石清を除けば引けを取るとは思わなかった。一方で、社会人野球時代は制球力に自信を持っていたがプロ入り後は周りに負けたくないとの気負いが力みに繋がり、制球がままならなくなってしまったという[4]。投手コーチの藤村隆男は体力を付けるためにランニングを重視し、投球練習が終わると、野手の打撃・守備練習が終わるまでひたすら走らされた。しかし、この時の走量がのちの自分を作ったと外木場自身が回想している[5]

1965年10月2日に膝を痛めた大羽進に代わり急遽登板[6]。そのプロ2度目の先発となった阪神戦で、外木場は憧れの村山と投げ合って僅か1四球を与えただけのノーヒットノーランでプロ初勝利を飾った[1]。新人選手のノーヒットノーランは過去3人目であったが、初勝利と同時の記録は史上初めてであった[7]。この年は閉幕までにもう1勝を挙げるが、以後2年間は0勝、2勝と伸び悩んだ。

1967年オフにはトレードの噂も出るようになったため、外木場は新監督の根本陸夫に真意を問うたところ「来季も一軍でやってもらう」との返事があった[5]

1968年になると、それまでのランニングが実を結んで下半身が安定し、春のキャンプからオープン戦にかけて自分でも驚くほど制球力が向上して直球のスピードが増した[5]。この年、外木場は根本監督から安仁屋宗八とともに先発の柱を任せられる[要出典]。シーズン2度目の先発となった4月14日大洋戦で完封勝利を収めるとそのまま波に乗り、21勝、防御率1.94の好成績を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得する。23勝を挙げた安仁屋とともに、広島の史上初のAクラス入りに大きく貢献した。また、同年の9月14日の大洋戦では2回目のノーヒットノーランを完全試合で達成、この試合ではリーグタイ記録となる16奪三振も記録している[8][注釈 1]

その後も先発投手の軸として活躍し、1976年までの9シーズンで8度の二桁勝利を記録する。

1972年4月29日巨人戦では史上2人目となる3回目のノーヒットノーランを達成する[9]。プロ野球史上、3度のノーヒットノーランを達成したのは沢村栄治と外木場の二人のみであり、2リーグ制以降の投手としては唯一の達成者である[1]

1974年は18勝、防御率2.82(リーグ7位)の好成績を挙げた。

1975年の春のキャンプを前に、外木場は新監督のジョー・ルーツに呼ばれ41試合の登板と最低でも20勝を求められる[10]。ルーツからは、オープン戦に入るまで投げ込みは3,4日に一度、オープン戦に入ってからは公式戦と同じ中三日の登板パターンを作る、なるべく無駄な投球はせず肩を大事にする、などアメリカ式合理主義を叩き込まれた[11]。ルーツは4月末に退任するが、外木場は投手陣の柱として20勝を挙げ、チーム初優勝に大きく貢献するとともに最多勝、最多奪三振、沢村賞のタイトルを獲得した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第1戦に先発。1回に3点を先制されるが、その後は9回途中まで好投し延長13回引き分けに持ち込んだ。外木場も第4戦でも先発として起用され、延長13回を投げきるがまたもや引き分けに終わった。

1976年のオープン戦で霧雨の中で投球を続けたところ、右肩の肩板を損傷した[12]。その年は誤魔化しながらも、10勝を挙げる。

1979年チーム初の日本一を機に現役を引退した。

引退後は広島に残り、1980年から1990年は同球団の二軍投手コーチを務めた。土井正三に請われ[13]1991年から1993年までオリックス・ブルーウェーブの二軍投手コーチ、1994年から1995年までカープアカデミーのコーチ、1996年から1999年は再び広島の二軍投手コーチを務めた。

2000年から2005年までは中国放送解説者を務め、2006年からは広島市のプロ育成野球専門学院で後進の指導に当たっていた。外木場はこの際、アマチュア野球を統括する日本野球連盟の規定により引退から25年経った2004年自由契約の手続きを取ったために話題となった。

2013年にエキスパート部門表彰で野球殿堂入りした[14]

2015年より、NHKラジオ第一「おはよう中国」(中国地方ローカル月曜~金曜 7:40~7:58)のプロ野球情報(不定期)のコーナー担当(電話出演)を務める。

プレースタイル

外木場は豪速球と縦に鋭く割れるカーブを武器とした。外木場の投げるカーブは、堀内恒夫などに見られるタイミングを外すカーブとは異なり、メジャーリーグにおいて "power curve" と呼ばれる、曲がりの鋭さで打者を翻弄するものであった。 高橋慶彦によると、外木場のカーブの切れは凄まじく、高田繁巨人)が面食らって尻もちをついたことがあるという[15]

田淵幸一への頭部死球~耳あて付きヘルメットの義務化へ

1970年8月26日の対阪神戦(甲子園)で、外木場は当時2年目だった田淵幸一の左こめかみに死球を与え、田淵は耳から流血して救急車で病院に搬送された[16]。このシーズン、外木場は田淵に12打数6安打4本塁打とカモにされていて、田淵を苦手にしている外木場からすれば、「胸元の厳しいところを突かなければ抑えられない」というプレッシャーがあった[16]。この試合の最初の打席も、ヒジに死球を与えていた。なお、これ以降、外木場は田淵に対して内角高めを攻めきれなくなってしまったという[12]

この一件は球界に大きな衝撃を与え、これを機に耳あて付きのヘルメットが義務化となった[16]。しかし、この措置に衣笠祥雄は、「耳あて付きのヘルメットをかぶると視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなる」と主張。機構側も衣笠の主張を一部認め、プロで一定年数を満たした選手に限り、耳あて無しのヘルメットの着用が許可されたという[16]王貞治も同様の理由で耳あて無しのヘルメットを着用していたとされる[16]

人物・エピソード

外木場は気性の強い選手であり、ノーヒットノーランを初めて達成した時のインタビューで「こういう記録を達成した人は意外と短命」との記者からの声に「何ならもう一度やりましょうか」と答え[1][17]、後に二度も達成することになった。 外木場が完全試合を達成した日の試合は、後に広島で捕手として入団する達川光男が球場で観戦していた[18]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1965 広島 16 7 2 1 1 2 1 -- -- .667 190 51.1 30 1 12 1 0 34 0 0 9 8 1.41 0.82
1966 25 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 133 32.1 26 5 11 0 1 23 1 0 14 13 3.66 1.14
1967 22 10 2 0 0 2 3 -- -- .400 301 78.1 50 5 17 1 4 57 2 0 26 23 2.65 0.86
1968 45 40 19 6 2 21 14 -- -- .600 1169 302.1 198 22 83 6 6 260 2 0 78 65 1.94 0.93
1969 43 39 15 1 1 11 20 -- -- .355 1216 304.1 226 24 84 4 9 223 2 2 101 91 2.69 1.02
1970 39 30 13 4 2 13 14 -- -- .481 893 228.1 169 28 49 6 11 157 3 0 74 67 2.64 0.95
1971 37 21 2 0 0 9 12 -- -- .429 665 155.1 145 20 47 5 10 113 1 0 80 67 3.89 1.24
1972 41 29 11 3 1 11 15 -- -- .423 936 230.2 200 23 60 2 7 158 1 0 93 86 3.35 1.13
1973 44 31 10 3 0 12 19 -- -- .387 998 249.0 199 23 74 4 5 160 0 1 81 73 2.64 1.10
1974 46 38 21 4 2 18 16 3 -- .529 1236 310.1 259 34 85 6 9 196 0 0 105 97 2.82 1.11
1975 41 40 17 3 2 20 13 0 -- .606 1174 287.0 240 29 89 7 9 193 3 0 105 94 2.95 1.15
1976 25 23 6 2 0 10 5 0 -- .667 607 144.1 136 19 52 1 2 86 3 0 71 63 3.94 1.30
1977 6 5 0 0 0 1 2 0 -- .333 99 21.1 26 2 10 0 1 4 1 0 14 13 5.57 1.69
1978 14 3 0 0 0 1 3 0 -- .250 110 23.1 22 4 18 1 2 14 1 0 17 15 5.87 1.71
1979 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 1.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:15年 445 318 118 27 11 131 138 3 -- .487 9730 2419.1 1926 239 691 44 76 1678 20 3 868 775 2.88 1.08
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 最多勝利:1回 (1975年)
  • 最優秀防御率:1回 (1968年)
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):1回 (1975年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰

表彰

記録

初記録
  • 初登板:1965年4月21日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:1965年9月5日、対読売ジャイアンツ21回戦(広島市民球場)、8回表に須藤豊から
  • 初先発:1965年9月23日、対サンケイスワローズ26回戦(広島市民球場)、2回2/3を無失点
  • 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1965年10月2日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場) ※ノーヒットノーラン(後述参照)
  • 初セーブ:1974年6月12日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に2番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初本塁打:1968年7月10日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、高橋明からソロ本塁打(通算2本塁打)
節目の記録
その他の記録
  • ノーヒットノーラン:3回 ※史上33人目(3度の達成は史上2人目)
    • 1965年10月2日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場) ※史上41度目
    • 1968年9月14日、対大洋ホエールズ18回戦(広島市民球場) ※史上49度目(史上10人目の完全試合)
    • 1972年4月29日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場) ※史上57度目
  • オールスターゲーム出場:6回 (1968年 - 1970年、1972年、1974年、1975年)

背番号

  • 14 (1965年 - 1979年)
  • 73 (1980年 - 1993年)
  • 80 (1996年 - 1999年)

関連情報

出演番組

脚注

注釈

  1. ^ この記録は、2022年佐々木朗希千葉ロッテマリーンズ)が完全試合で19奪三振を記録するまで、NPBにおける「ノーヒットノーランでの最多奪三振記録」でもあった[1]

出典

  1. ^ a b c d e 小林雄二 (2022年4月27日). “球団唯一の完全試合を達成した外木場義郎。生涯3度の“ノーノー”はプロ野球史上最多【カープ歴代記録列伝#2~完全試合含む3度のノーヒットノーラン~】”. HIROSHIM ATHLETE MAGAZINE WEB. https://www.hiroshima-athlete.com/articles/-/3036 2022年5月22日閲覧。 
  2. ^ さらば、愛しきプロ野球…。より[出典無効]
  3. ^ 松永郁子 2002, p. 140.
  4. ^ Number(編) 1986, p. 169.
  5. ^ a b c Number(編) 1986, p. 170.
  6. ^ 高橋安幸 (2019年11月28日). “カープ伝説のエース・外木場義郎が 明かした「完全試合」達成の心境|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva page2”. web Sportiva. 2021年11月5日閲覧。
  7. ^ 松永郁子 2002, p. 141.
  8. ^ 松永郁子 2002, p. 145.
  9. ^ 【4月29日】1972年(昭47) 伝説の右腕と2人だけ 外木場義郎3度目の大記録 - スポニチ Archived 2015年12月17日, at the Wayback Machine.
  10. ^ Number(編) 1986, p. 167.
  11. ^ Number(編) 1986, p. 168.
  12. ^ a b Number(編) 1986, p. 172.
  13. ^ 野村貴仁『再生』角川書店、2016年、p.74
  14. ^ “広島で活躍の大野、外木場氏が殿堂入り”. サンケイスポーツ. (2013年1月11日). https://megalodon.jp/2013-0111-1644-47/www.sanspo.com/baseball/news/20130111/npb13011116260003-n1.html 2013年1月11日閲覧。 
  15. ^ 【真相告白】年間被本塁打数歴代1位!池谷さん本人が納得の理由を語ってくれました【池谷公二郎】【沢村賞投手】【広島カープ】【カープOBを回る旅】 - YouTube
  16. ^ a b c d e “二宮清純「田淵幸一、“頭部死球”の産物」”. 現代ビジネス (2013年6月7日). 2020年8月14日閲覧。
  17. ^ 高橋安幸 (2019年11月28日). “カープ伝説のエース・外木場義郎が 明かした「完全試合」達成の心境 (3/6ページ)”. web Sportiva. 2021年11月5日閲覧。
  18. ^ “【達川光男連載#5】見せ場のない捕手はつまらない「なんでこんなことせにゃあ、いけんのや」”. 東スポWEB (2024年1月30日). 2024年1月31日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

  • 外木場 義郎 - 野球殿堂博物館
  • 個人年度別成績 外木場義郎 - NPB.jp 日本野球機構
 
業績
野球殿堂表彰者
競技者表彰
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
プレーヤー
2000年代
2010年代
2020年代
エキスパート
2000年代
2010年代
2020年代
特別表彰
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
新世紀
2000年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1947年制定。記述のない年は該当者なし。
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
20世紀
21世紀
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
脚注

ノーヒットノーラン達成投手のみ記載。
完全試合達成投手についてはTemplate:日本プロ野球完全試合達成者を参照。

1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ最優秀防御率
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ最多奪三振
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1991年にタイトル制定
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
 
セントラル・リーグ ベストナイン(1回)
1975年 セントラル・リーグ ベストナイン
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
広島東洋カープ開幕投手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代