ヴィンセント・ユーマンス

ヴィンセント・ミリー・ユーマンスまたはユーマンズVincent Millie Youmans, 1898年9月27日 ニューヨーク・シティ - 1946年4月5日 コロラド州デンヴァー)は、アメリカ合衆国ポピュラー音楽作曲家ブロードウェイミュージカルプロデューサーとしても活動した。

略歴

ニューヨーク州に生まれ、セントラルパーク西部のメイフラワー・ホテルの跡地に育つ。父親が裕福な制帽工場の経営主だったため、ニューヨーク州ラーチモントの上流階級に加わった[1]ママロネックの私立校トリニティー・スクールやライのヘスコート・ホールに在籍した後、当初はエンジニアを目指しイェール大学に短期間通う。中退してウォール街の証券会社に就職するが、第一次世界大戦に徴兵され出征。海軍の慰問団をプロデュースした際に劇場に関心を抱くようになり、戦後復員してからティン・パン・アレーのT. B. ハームズ社でソング・プラガーとして働き、次いで著名な作曲家ヴィクター・ハーバートオペレッタでリハーサル・ピアニストを務めた[2]

ユーマンスはブロードウェイの最も優れた作詞家―例えばハーバート・ストサートやオットー・ハーバック、オスカー・ハマースタイン2世アーヴィング・シーザー、アン・コールドウェル、レオ・ロビン、クリフォード・グレイ、ビリー・ローズ、エドワード・エリスク、エドワード・ヘイマン、ハロルド・アダムソン、マック・ゴードン、バディ・デ・シルヴァ、ガス・カーンらと共作を行なった[2]アイラ・ガーシュウィンとの共作『トゥー・リトル・ガールズ・イン・ブルー(Two Little Girls in Blue)』(1921年)の楽曲は広く評判をとった。次に手懸けたのが、ハーバックやハマースタイン2世との共作によるショウ『ワイルドフラワー(Wildflower)』(1923年)である。しかし最もヒットしたのは、シーザーと共作した『ノー・ノー・ナネット』(1925年)であった。

『ノー・ノー・ナネット』は1920年代の欧米において最大の成功作となり、挿入歌の《二人でお茶を》と《アイ・ウォント・トゥ・ビー・ハッピー(I Want to Be Happy)》はスタンダード・ナンバーとして認められた。ユーマンスのもう一つの代表作は、挿入歌《ハレルヤ》で知られる『ヒット・ザ・デック(Hit the Deck)』(1927年)である。

1927年以降は自作のショウのプロデューサーも兼ねた。同年上演されたハマースタイン2世とジェローム・カーンの「ショウボート」に影響を受けたユーマンスは、シリアスなミュージカル・ドラマを手がけるようになる[3]。公演自体は失敗に終わるも、多くの歌がヒットを続けた。ブロードウェイでの最後の仕事は、1932年のミュージカル『テイク・ア・チャンス(Take a Chance)』への追加の楽曲だった[4]

1933年、ユーマンスはハリウッドに移り映画「空中レヴュー時代」の音楽を担当した。これはフレッド・アステアジンジャー・ロジャースダンスペアを組んだ最初の作品で、2人が踊ったナンバー《キャリオカ》は大評判になった。他の挿入歌《月下の蘭(Orchids in the Moonlight)》はコンチネンタル・タンゴの名曲として知られている。

映画のヒットでキャリアの復活が見えた矢先、翌年ユーマンスは結核を患い、わずか13年間の活動をもって引退を余儀なくされる。ブロードウェイへの唯一の復帰作は、不幸な運命をたどった大興行の『ヴィンセント・ユーマンス・バレエ・レビュー(Vincent Youmans Ballet Revue)』(1943年)である。このショウはラテン音楽と、ラヴェルの《ダフニスとクロエ》などのクラシック音楽とを融合させた野心作で、レオニード・マシーンが振り付けたが、約400万ドルの赤字に終わった[5]

1946年に結核により病歿。未出版の楽譜を大量に遺したまま亡くなった。1970年「ソングライターの殿堂」入りを果たす。

作風

ユーマンスの最初期の歌は、旋律素材の簡潔さが際立っている。2音から4音でできたフレーズが絶え間なく繰り返され、和声やリズムを絶妙に変化させつつ変奏される。しかし後年は、より長い楽句や狂詩曲風の旋律線を用いるようになった[4]。正式に出版された歌は100曲に満たないが、うち18曲がASCAPによってスタンダード・ナンバーと認定されており[4]、これは非常に高い割合である。

映画

  • 浮気成金 No, No, Nanette (1930)
  • Hit the Deck (1930)
  • 赤陽の山路 Song of the West (1930)
  • 陽気な後家さん What a Widow! (1930)
  • 当たって砕けろ Take a Chance (1933)
  • 空中レヴュー時代 Flying Down to Rio (1933)
  • ノー・ノー・ナネット No, No, Nanette (1940)
  • 二人でお茶を Tea for Two (1950)
  • 艦隊は踊る Hit the Deck (1955)[6]

註釈

  1. ^ Suskin, Steven. "Vincent Youmans". Show Tunes: The Songs, Shows, and Careers of Broadway's Major Composers. Oxford University Press: 2000.
  2. ^ a b “Vincent Youmans | Songwriters Hall of Fame”. Songwriters Hall of Fame. 2024年2月3日閲覧。
  3. ^ “ON THE RECORD: Through the Years with Youmans and Wodehouse”. PLAYBILL. 2023−9−14閲覧。
  4. ^ a b c Gerald Bordman: 'Vincent Youmans', Grove Music Online ed. L. Macy (Accessed [12 July 2008]), <http://www.grovemusic.com>
  5. ^ Vincent Youmans. (2001). In The Faber Companion to 20th Century Popular Music. Retrieved April 13, 2008, from http://www.credoreference.com/entry/4413590
  6. ^ "Vincent Youmans: Film scores", Songwriters' Hall of Fame, accessed January 12, 2013

参考文献

  • 『ミュージカル物語―オッフェンバックから『キャッツ』まで』アラン・ジェイ・ラーナー 著、筑摩書房、1990年 ISBN 978-4480871473
  • 『ティ・フォー・トゥー物語』村尾陸男 著、中央アート出版社、2001年 ISBN 978-4813600107
  • 『イージー・トゥ・リメンバー: アメリカン・ポピュラー・ソングの黄金時代』ウィリアム・ジンサー 著、国書刊行会、2014年 ISBN 978-4336056672

外部リンク

音源

  • Vincent Lopez Orch. plays Youmans: I Want To Be Happy, 1925 - YouTube
  • Roaring Twenties: Nat Shilkret - Hallelujah! 1927 - YouTube
  • Lee Wiley sings Youmans' "Time On My Hands", 1931 - YouTube
  • ROBERT MERRIL SINGS - VINCENT YOUMANS 1955 - YouTube
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • ISNI
  • VIAF
国立図書館
  • ノルウェー
  • スペイン
  • フランス
  • BnF data
  • ドイツ
  • イタリア
  • イスラエル
  • フィンランド
  • ベルギー
  • アメリカ
  • ラトビア
  • 日本
  • チェコ
  • 韓国
  • オランダ
  • ポーランド
学術データベース
  • CiNii Books
  • CiNii Research
芸術家
  • MusicBrainz
人物
  • ドイッチェ・ビオグラフィー
  • Trove(オーストラリア)
    • 1
その他
  • RISM
  • SNAC
  • IdRef